Conference

Basic information

Name MIZUTA Tomonori
Belonging department
Occupation name
researchmap researcher code B000219778
researchmap agency Bukkyo University

Title

An Edwardian Suffragette in Interwar Japan

Author

Tomonori MIZUTA

Journal

The Japan Women's History Network

Publication Date

2025/12/06

Start Date

2025/12/06

End Date

2025/12/06

Invited

Not exist

Language

Japanese

Country/Region

Japan

Conference Class

Domestic conferences

International Collaboration

Conference Type

Verbal presentations (general)

Promoter

The Japan Women's History Network

Venue

Rikkyo University

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Summary

本報告では、東京女学館の英語講師アイリーン・ケーシー(Eileen Mary Casey, 1881-1972年)が暴れ馬を止めた事件の分析を通じ、参政権獲得後のイギリス女性参政権運動家たちの活動について、彼らの「日本観」を踏まえて検討する。
 事件は1929年10月28日午後5時半頃、東京府神田区駿河台で発生した。市電の火花に驚いて暴走した馬車を、近くの停留所にいたケーシーが、負傷しながらも取り押さえたのである。行動の理由について、彼女は記者に、「女の身で駄目だと思ったが、イギリスでは最初の発見者の責任であるため飛びついた」と答えている。この事件は、日本の新聞各紙だけでなく、女性自由連盟(WFL)の機関紙 The Vote でも報じられた。
ケーシーはオーストラリアで生まれ、イギリスで活躍した急進的女性参政権論者であった。1911年に女性社会政治同盟(WSPU)に加入し、パンクハーストらとともにロンドンでの「窓破り」などに参加したことで、1913年に逮捕・投獄された経験を持つ。第4次選挙法改正後、彼女は1923-38年を日本で過ごし、日本の女性参政権運動をイギリスに紹介する役目も担った。第二次大戦がはじまるとオーストラリアに移住して検閲局に勤務し、戦後の1951年にイギリスに帰国した。
 では、ケーシーたち、イギリスの女性参政権運動家は日本(および日本人女性)をどのように捉えていたのだろうか。運動の機関紙誌に掲載された日本関連記事からみると、当時、主に3つの情報源が「日本観」の形成に影響していた。それは、ジャポニスムを踏まえたイギリス世論の「日本」、日本の政府や留学生が主張した「日本」、そして滞日経験を持つ寄稿者が示した「日本」である。これらの混淆が運動家たちの認識に作用し、ケーシーが戦間期に日本で女子教育に尽力する契機になったと考えられる。
 近年の女性参政権運動史研究は、グローバルな視座のもとで、運動をトランスナショナルな結びつきのなかに位置づけ、そこから生まれる多様な「フェミニズムズ」を重層的に描き出す方向に進展している。本報告はこの動向を踏まえ、「たくさんの異なるフェミニズムズの物語」のひとつとして、欧米での「成功体験」を背景に国境を越えた、必ずしも著名ではない実践者が、日本の女性参政権運動に向けたまなざしについて考えてみたい。

Major Achivement

Main Achievement