西鶴『好色一代女』は、『けしずみ』等既存の懺悔ものの「語る‐聞く」という単純な構造をとらず、好色庵を訪れた二名の色好みの求めに応じて一代女が過去の男性遍歴を告白した内容を語り聞かせ、さらに好色庵の様子を覗き見る男が聞くという回りくどい語り手の「機構」を有する作品である。そのため、一代女の一人称による語りと三人称が混在する「墨絵浮気袖」(巻四ノ二)のような事例が頻発し、これを構造的破綻と理解するのも無理からぬことではある。一方で、中嶋隆氏(「『好色一代女』の叙述の構造―「性」からの照射―」『国文学研究』第百集)や、西田耕三氏(『主人公の誕生』ぺりかん社)のように肯定的に理解する先行研究もある。
発表者も肯定的な立場をとるが、その根拠として首章の設定を重視したい。冒頭「「美女は命を断つ斧」と古人もいへり」に始まる箇所で常識的な色道への戒めが述べられるのに対し、終末部一代女が「女子十八九までも竹馬に乗り」云々と述懐する箇所は、「誇張がある」(『新編全集』頭注)と理解され対照的である。首章から常人を超える恋愛遍歴を重ねてきた一代女の語りには認知の歪みが生じており、そこに「常識」を持ち込む役割を担ったのが、好色庵を覗き見る男の語りであった。作品の進行とともに男の語り手による介入は減退するが、一代女の語りに没入しないこの語り手こそが、一代女が正気を失っていく物語として仕立てられた『好色一代女』には必要不可欠な存在であった。