マックス・ヴェーバーのフライブルク大学移籍問題(1893-94年)は、プロイセン文部省とバーデン法務・文部省とのあいだの確執を背景として、ヴェーバーをプロイセンに留めようと画策するフリードリヒ・アルトホフと、彼をフライブルク大学に招こうとするルートヴィヒ・アルンスペルガーとの対立を軸として紛糾した。
この問題にかかわる重要史料のかなりの部分は、不正な工作を展開したアルトホフによって改竄され、あるいは隠匿された。加えて、プロイセンとの紛糾を記録に残しておくことを嫌ったアルンスペルガーも、関係史料を公式のファイル内に残さなかった。そのため、ベルリンの公文書館に所蔵されているプロイセン側の史料ファイルを閲覧しても、またカールスルーエの公文書館に所蔵されているバーデン側の史料ファイルを閲覧しても、後世の研究者がその実相を把握することはきわめて困難になっている。
報告者は、これまで、歴史社会学的推論の手法を用いて、遺されている史料から、隠匿ないし隠滅された史料を復元する作業をおこない、その実相を突きとめた。そしてその後、隠されていた史料の一部が発見され、アルンスペルガーがアルトホフの不正を激しく論難していたことが判明した。これによって、それまでの報告者の推論が完全に正しかったことが疑問の余地なく証明された。
このケースから、以下のことが明らかになった。第一に、歴史素材は、その付帯事情を詳細に把握している場合にのみ正確な考証が可能であり、素材の有する限界および研究者自身による考証の限界をたえず認識することが重要であること、第二に、往復書簡は、因果連関のもっとも直接的な事象であるから、その記述の解釈については、厳密な考証が不可欠であること、第三に、歴史社会学的研究は、「歴史」を標榜する以上、新しい史料等を提供する義務があること、この三点である。