ベルリン大学法学部私講師だったヴェーバーは、1892年に卒中で倒れたゴルトシュミットが教壇復帰を企てたものの果たせなかったことから、1894年秋に員内准教授として商法科目等を担当する。このときプロイセン文部省は、彼がすでにフライブルク大学哲学部正教授に就任する予定であることを確認しており、ベルリンにおける代講はフライブルクへの転出前の一時的任務とされていた。ところがアルトホフは、この臨時措置の引き延ばしを図り、そのためベルリン大学側にもバーデン側にも大きな業務上の支障が生ずるのを意に介さず、アーロンス追放のためにラーバントを招聘することに熱中したが、これを果たすことはできなかった。